5庄屋物語〜うきはの水〜
寛文3年、日照りが続きました。目の前に筑後川があるのに水を引けなくて村人たちが大変困っていました。それを見ていた5人の庄屋がある提案をしたのです。
その提案とは、大石長野水道を作ることです。その提案を有馬藩に申し出たところ、励ましをもらえました。
その後、計画書を作り上げ、田代(たしろ)大庄屋にも頼んで願い書を出そうとしたことを聞いた近隣(きんりん)の6人の庄屋が、我々も是非(ぜひ)この計画に加えてもらいたいと申し出てきました。5人の庄屋は、一度は断りましたが、結局一緒にやってもらうことにしました。13の村と11人の庄屋が大石長野水道を作るのを手伝いました。水道工事請願書(すいどうこうじせいがんしょう)に名を連ね、(つらね)有馬藩(ありまはん)の役所に願い出たのです。
ようやく願い書を出して、やれやれと思っていたところ、11ケ村の庄屋がそろって反対を言い出したのです。
その理由は、若し大石村から渠(みぞ)を掘って筑後川の水を流し込んだら、一度大洪水になったら、自分達の村は大水になって、大変な損害を受ける恐れがあると言う事でした。3ケ村の庄屋も此れに加わって反対したので、騒ぎはいよいよ大きくなりました。
この反対の意見が出ていることを知った奉行は、心配して、工事予定の場所に出かけました。そして、反対の庄屋の代表は、奉行に反対の意見を述べました。反対の庄屋に対し、工事を願い出た11人の庄屋が「計画通り工事を進めても損害を及ぼさない。必ず我々が責任を取り、どんな罰でも受けます。」と決意を示し、奉行も反対する庄屋達に言い聞かせたので、反対論は、収まりました。そして、まず土地の高低差を調べました。
其れと同時に郡奉行は、11人の庄屋を呼んで、「水路が出来上がった際、万が一水が流れてこない時は、お前達の責任は免れない。もし成功しなかった場合、磔の刑にされるであろうが、それでも不服はあるまいな」と念を押しました。この時、初めからこの計画を言い出した5人の庄屋が進み出て「不幸にして不成功に終わり、全てが無駄になった時は、喜んで磔の罰を受けて、藩や世の人々にお詫びいたします」と覚悟の程を申し述べました。
いざ、水路づくりが始まりました。
工事期間は、3ヶ月
村人たちは、進んで水路づくりを手伝いました。「この、水路ができれば自分のためにもなる、いや、隣の家の人の役にもたち、それ以上、自分の子孫のためにもなる。」「5人の庄屋を死なせるものかあ。」
皆の協力で、工事期間の3ヶ月よりもはやい、約60日で終りました。
いざ、水門を開くとき、
「水門を開け」
ザアアアアーーーー 水が流れました。
村人たちは、水を追いかけました。片隅では、手を取り合い、抱き合い喜ぶ村人もいました。
その後、5つの磔台は、燃やされたとも言われています。
この神社は、長野水神社です。
長野水神社は、先程の、5人の庄屋がまつられている神社です。
今でも、うきはの人々に感謝されています。
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